#論考4 クルト=シュナイダー「宗教精神病理」について


宗教と精神医学の関係性については
①確固たる主観的信念
②祈祷(≒常同行為)

上記の特徴から
①精神病との境界線設定が難しい。
②(これ重要だと思う)この中に紛れ込んでしまった病理は検出し難い

かなり古い本ながら、宗教の聖域性については十分は配慮を持った上で
上記の論点を提示している。

【要約とフルヤ考え】宗教の啓示
「私は髪の拡声器である。」「私は神の筆である」といった脱自己化が起きる。
これは、宮本の「病跡研究集成」にあるような「太陽への同一化」の一つの宗教的ヴァリエーションであるようにフルヤには思える。
もしくは、本来ならばアナストロフェ的に「世界の中心」となってしまう病的自己を
宗教の機能的側面が圧倒的な神を置くことで食い止めている、とも言えるのかもしれない。

【要約とフルヤ考え】「懺悔」というものの性質。
懺悔は高い嗜癖性と強迫性を兼ね備えていて、宗教の戦略的装置となっている。
懺悔の中で、利己的な、欺瞞的な、誤謬した表現を用いてないかが気になり、
その訂正をするための懺悔を繰り返すといったプロセスがまま見られる。


【要約とフルヤ考え】狂信者の報告
狂信者は、内面の不全感、不確実さを背景に持つことは他の人格障害的なものと変わらないのだが、
少なくとも表面上は”後ろめたさ”を持ちえないことが特徴で、
”熱狂的だが浅薄な”信者となることがままで、それが社会性を獲得すると”好訴的”性格となる傾向がある。
さらに、一部の狂信者は、啓示的なプロセスを通じその性質を180度展開させて、晩年”食えない”隠遁者となるグループもいる。
というのが面白い。
この流れを考えてみると、フルヤも確かにある種のエキセントリックな男のステロタイプな人生が思い浮かぶ
若い頃の暴力的な性質と強い主張。そういう男が老後とても非社交的な地域に隠遁して、
どうも逍遥としていていかにも悟った雰囲気を醸しているが、
試しに話を聞いてみれば、やはり独善的な独自の世界観に満ちていることがわかる…
そういった人物に心当たりがある人は多いのではなかろうか