#論考2 Klaus Conrad Ⅰ「おしっこ爆撃」について(1)

ナチの軍医として、多くの統合失調症兵士の臨床にあたった彼。

彼自身は「私は一般兵卒というサンプルとして平準化された対象より研究することで偏波のない研究ができた」と語るものの。

 

内部的にはそうかもしれないが、全体としてはナチの、しかも敗戦濃厚な時期が強く影を落としていて。

妄想の内容には戦闘や、敗戦後の不安という非妄想的要素がその根幹にある。


誇大妄想としては昇進や自らが戦争をグリップしているといったもの。

被害妄想として罰則や、処刑、捕虜といったものがステロタイプに登場する。
(思考吹入の典型例が近代以前日本は”狐憑き”で、それが”電波”に変わったことを参照してほしい)


その中でも「おしっこ爆撃」の話はとてもおもしろかった。(面白かったといっていいかしらんが)

 

彼は排尿の度に英国本土に非常に有用な爆撃をしたと妄想し、すなわち、自らの尿射出機能は、軍用機の爆撃機能に同期していると考えた。
これはいわゆる「デノテーションコノテーションの錯綜」というやつで、単語及び文中での上位下位の所属関係の錯綜と取れるとのこと。

 

つまり「おしっこ(発射)」と「爆弾(発射)」がそのconotation(周辺属性)のみで繋がり(おしっこの本質的属性(denotation)を”排泄物”。爆弾を”兵器”と考えたときに)
そのまま”爆弾”というdenotationに再接続されるという認知のゆがみのあり方。

これは「古代の思想」とも呼ばれ、言語が強固になってなかった古代においてはこのような思考回路がむしろ標準だったということだ。


(どの本だったか忘れたけど、古代人が「彼は馬だ」という時、それは比喩ではなかったという話。つまり比喩とはメタ(→合理主義的に洗練された?)な”古代の思想”といえるのだろう

同時に、これは児戯に共通して見られる感覚だとフルヤは思うし、たいがい子供の時このような、”主語や述語を無視したなりきり遊び”をした記憶が誰にでもあるのではないか?
今我々がある種の道具(映画とか、ゲームとか、その他あらゆる広義でのVR)を以てしか没入できない仮想を、子供たちがいとも容易く潜っていけるのも、彼らが幼少期の魔力を以て古代の能力を行使しているとも考えられる。


フルヤ的には、それはもしかしたら、ラカンの言うように「世界を言葉で奪取する」このちぎり取りのプロセスの中で、我々もまた世界に少しづつ自由を簒奪(或いはあらゆる金具で拘束)されているのかもしれない、などと思う。

 

加えて、フルヤ的には、一兵卒として病床に臥せっている無力な彼は、この妄想を通じて敗色濃厚なナチに対して代償的に大いなる最前線の貢献をしているのであるし、これは中井久夫の言うところの「妄想のプラスの活用」が働いているように思う。