【未推敲】純粋不安なるものについての考察

人は誰しも自分のあり方等について多少魔術的な(例えば自然の因果に則さないような縁起、感染呪術的なものであったり)をするけれども、僕はそういうのがかなりある。

ただ、そういういうのを意識的に取り払えている状態というのがあって、色々そういうの浮かんできても「はぁ?馬鹿じゃん」って取り払える

 

ただ、それをずっとやっていると、なんか強烈な明言できない不安がもたげてくることがある。

これって不安が言語化される以前の、未加工の状態が露呈したのでは無いかと思うのだ。

 

人間の精神に、ある意味では言語に置換されることで形を得て、「その言語を解決する」ことによって解消されていく機構があるとして、真にえられないのは某文豪が言及したような、「漠然とした不安」なのだろうと思う。

 

なので内的なある種の後ろめたい言語も、ただむやみに排斥すべきものではないのだろうな、とも思うんだ