#論考3 第4の壁を超える時(ボロフチク「愛の島ゴトー」文芸坐シネマテーク)

 

日露戦争開始時、日本帝国海軍が国際法無視、宣戦布告無しに旅順艦隊を攻撃した際。
ニコライ2世は「宣戦布告抜きだと!おお神よ!」と叫んだらしいけれど。
フルヤはボロフチク「愛の島ゴトー」から上記のような脅威を感じた。



架空の独裁者ゴトーの統治する島の話
独裁を滑稽に極度にカリカチュアライズした奇抜な処刑制度(相撲もどきをさせて負けたほうを処刑)や
稚拙な物流システム(トロッコでの汎用的運送システム)が鎖国下で行われており、そこでの愛憎劇を描いている。



この映画にはあらゆるメタフィクションが巧妙に仕組まれていて、
特徴的なのは大寺眞輔先生がトークショーで言っていた、
あらゆるシーンが壁を背景にして行われ、あえて世界が平板で戯画的で人工性が強調されているといったところ



ただ、フルヤにとっては一番衝撃的だったのはやはりヒロインの死のシーンであって、
ヒロインは明らかに劇中で死亡していて、主人公は嘆き苦しんでいるのだが、
ヒロインはずっと目をしばたかせているというシーンがある。
目の瞬きは顕著なもので、無論三文芝居ということはなかろうから、
これもある種の舞台装置として設定したものであることは間違いない。



フルヤにとってはこのフィクションの設定は”脅威的”に感じられた。
冒頭の唐突な日露戦争のたとえ。
予告なしに領土を侵害されたような感覚。



引用【第4の壁】Wiki

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演劇において「第四の壁を破る」という言葉は、人物や何らかの舞台装置の働きで、
役者達が観客に見られていることを「自覚した」ときに用いられる。
(中略)
最もよく見られるのは人物が観客に呼びかけることで第四の壁を破るものだが、
それ以外にも演技を止めて素の役者の立場に戻ることや、
会話によって、また人物が物語の状況の外にある事物と関わること
(例えば人物が小道具を舞台係から受け取ったり、歌舞伎において観客を地蔵に見立てていじるなど)

によって為される場合がある。

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第4の壁を乗り越えるときに、通例壁の存在の抵抗値に応じた儀礼的行動があるのだとフルヤは思う
往年の古畑任三郎を思い描いてくれればわかりやすいけれど、
彼が”こちらがわに越境する”ときには
向こう側の後景はフェイドアウトして、スポットライトが当った暗い部屋に古畑は置かれる。
暗い空間は「観衆の世界と劇世界の中間領域」で、向こう側でもこちら側でもない。
この特殊空間においては最早、古畑も劇世界での純粋な彼ではなく、
劇世界の構造も、観衆の世界の構造も知っている彼なのだ
(劇中において彼がこの領域内での意識を保持しているとは考えがたい)



それは例えば映画Matrixにおける”地下鉄のプラットフォーム”
ここに係累されている存在は、Matrixの住人でなく、現実世界の住人でもない
(同時に”どちらでもある”がゆえに彼らは地下鉄にとどまる)



そういう意味で、ボロフチクのメタフィクションのあり方は「唐突な越境」であるといえ、
それは非常に驚きを以て迎え入れられると同時に、非常に驚異的なものだ。



福島第一原発における「指差し映像」。
フクイチのライブカメラに向かって唐突に指を指しなにかを訴えかける防護服姿の作業員を思い出す。
ヴィト・アコンチ「センターズ」に触発されたものらしく、
「指差すことによって鑑賞者との関係性を変換する」ことを
意図しているときいた。



フルヤにとってこの言明は
「コンセプトと作品がここまでつながるとは」という強烈な経験となった。
コンセプトを知る前に、その意図された皮膚感覚をこれ以上ないくらいに感受していたからだ。



我々は東日本大震災を安全にぬくぬくと春先のエアコンの効いた部屋で見ていたのであり、
それは偽善なしに言えばある種のショーとして機能していた。
その文脈中で唐突に彼がカメラに指弾したのは、「唐突な越境」以外のいかなるものでもなかった。



報道という劇でないものにおいても「古畑的空間と向こう側の空間」というのは区別されていると僕は思う
村上春樹が「アフターダーク」で見事に図示したように「俯瞰された空間」と「主体的空間」は区分されていて
神様の目線で災害を捉えた映像と、当事者がなにかを”こちら側”に語る空間というのは
映像的構造、或いはフッテージそのもので厳密に区分されている。



取材中に誰かに話しを聞く際にも、カメラワークはその人を中心に平面的に再構築され、
後景は”壁”として再構築されるだろう
(災害に”巻き込まれながら”取材を受けるひとはいない)
人間の認知がそうであるように、パースペクティブの基盤再構築は思考のリフレームと同一するとフルヤは考える。


この再構築は古畑的な空間と構造を同じくして。
「向こう側とこちら側の中間にある地下鉄のプラットフォーム」の機能を果たしている。



えてして我々は、安全を確保されている感覚を”こちら側”に係留しながら悲惨な現場を享受することが出来る。
しかしながら、あの”指弾”は、そういう中間領域をすっ飛ばして我々の領域に語りかけたのであり、
それは当然強い脅威の感覚を我々に与えうるだろう。



そして同時に恥じ入る。
我々が”向こう側”を見る際にはそれは当然一方通行であり、それは「のぞき見」の文脈を免れ得ないからだ。
我々はどこかで”ぬくぬくと”悲惨な現場を垣間見していることを知りつつそれを見るのであって、
突然の指弾はそのことをも指弾しうるのだ。



ボロフチクの「明らかに意図的な死んだふり」というのは、この”恥じ入る感覚”に非常に訴えかけるように思う。



ここから大切な部分なのだとフルヤは考えるが、
この”越境”は「私達のプライヴェートなメタフィクショナル性」に「メタフィクショナル的干渉」を及ぼすと考える。



我々は、劇中の死に直面する時(言うまでもないが)「本当は死んでいない」ことを知る。
そのことがメタフィクショナルな安心要素になっている
彼女の死は劇中の死であり、彼女はその後も笑顔で生活を楽しんでいるのだろうという安心感を持っている
(本当の死体だと思い込んでたら直視に耐えない)。

同時に私達は彼女の作り物の死に対してあらをさがそうとしているのであり、
特にSFXのない古い時代の映画において死人がズームにされるときは
どこか片隅で彼女の生の兆候(胸の上下であるとか)を探すのだろうと思う。
それは上記の安心感情の獲得欲求からも来るものだとフルヤは考える。



そこへ来て、彼女はかなり明確に目をパチパチしてみる。
それは、「私は”そちら側のあなたの鑑賞態度を”見ているぞ”」というメッセージになりうるのではないか?
その時、我々は唐突に「安全なのぞき見」から「覗き見られている」という変換を経験し
脅威を禁じ得ないとともに大いに恥じうるのではなかろうか?