【書評】『冷血』トルーマン・カポーティ

繊細で若くして詩的叙情を持つような男が、物事を額面通りにしか捉えない、下品なジョークが好きなような男とお互いを軽侮しながら離れがたい友誼を結ぶ。というのは僕の周り_僕自身のことを考えてみてもすごく共感が出来る。

この本で一番深く潜って考えたのはそのことで、そういう場合お互いは優しさを分け合いながらも同等か、それ以上の憎しみを懐き合うアンビバレントな状態を構築しやすい。

2人はどう見ても精神病質や反社会性人格障害、情性欠如、サイコパスと呼びうるようなものではない。そうだったらカポーティの云う所の”ノンフィクション・ノベル”は成り立たないだろう。鋸が木を切るだけの叙事的描写に終始してしまうから。

蓋し彼らは”cold blood”ではない。

僕はこの極めて人間的な2人のどちらか片方だけ、或いは全然別の人間と共犯関係だったら一家惨殺というような破局的結果にはならなかったと思う。

お互いがお互いを相補的に求めることの、反作用としての憎悪の発露が、ペリーをどう考えても合理的ではない蛮行に及ばせたのだと考える。

心理学では人間は強烈なコンフリクト(矛盾する心性による行動不能状態≒葛藤)が心中に有る時に、破局的エネルギーが爆発しやすいと云うが、それがペリーに訪れたことには、親友との矛盾に加えて、自身内面にもまた強烈な葛藤があったからだろう。

2重の葛藤は、原子爆弾の爆縮の仕組みのように彼の核へと負のエネルギーを凝縮した…。

捜査官デューイが首をかしげる「相手を惨殺しながらも殺害前寝床を確保したり姿勢を楽にしてやる優しさ」というのはそれを表していて、IQ200近く、高度な知性と全く無意味で前後不覚な連続殺人を犯したエドモントケンバーを想起させる。

彼の精神鑑定では、その蛮行を「心的外傷に作用に依って脊髄反射的に発動する、自分を迫害する者達への投影と、解離を伴う防衛行動」と定義していた。

おもへらく、彼自身の精神機能の初期値があまりに繊細すぎた。その繊細さが死を目の前にして料理のお礼を管理人に述べ、独房にリスを餌付けするような、人間的で暖かな優しさに。同時に泣き叫ぶ少女に事務的に発砲するような、機械的に凍えきった高度な解離へとつながっていったのではあるまいか?

どのようなものにとっても幼少期の愛情欠如や外傷体験は深い傷と暴力行動を喚起するものの、本来感性の働きが高く繊細な人にとっては、より深刻なものとなりうるのだろう。本来であれば数多くの優しさに触れ人並みの何倍もそれを摂取できる能力は同時に、憎悪や暴力に関しても、何倍もの摂取を可能としてしまうのである。

そして、その事が彼自身の深い慈愛との同居さえ可能にするような高度の解離を形成したのだと、僕は考える。