第1稿「フルヤアツシ」アーティストステイトメント
第1稿「フルヤアツシ」アーティストステイトメント
180322
都市は情報的構造を集積しつづけ、都市的なこころもそうして集積される
生活基盤の鉄道によって、物理的領域は各駅に裁断され
「板橋駅区域での思い出」「高田馬場区域での思い出」とインデックスされ
その紐付けによって想起される。
そこに何年かぶりに再訪し、その街というリングファイルが索引され
錆びかけた金具を磨き、新しい頁を挿入する
情報更新された街は、厚みを増した心象風景を作り出す
そうして都市の機序を内面化、序列化した構造を
よりよいもの、望ましいもの、美しいものに書換する。
僕のこの数年のライフワークとなっている。経験を求め都市を旅する。
この構造化された経験の書架のようなもの_
僕は開架して図書館としたいと思う。
制作・創作の原初的動機と言える。
開架といったけれど、
この図書館は改修した書架、自宅をリフォームした小料理屋ではなく
全く新規の造成が必要だ。
死である。
図書館は不死身でなくてはならぬ。
私という書架も遠からず来る死の支配下に散逸される運命にある
凍える夜に蛮族が、唐突で圧倒的に、殲滅する。
始まってしまえばいかなる申立も嘲笑われるのみだ
死が始まってしまえば
収奪後の石版図書の断片は道路の縁石に、砂塵に紛れ、もしかしたら異国の石段の一部に。
僕の脳細胞は焼かれ、意味を失い、分子に飛散し、全く異なる意味の中に再回収される
脳という書架はこの運命を免れない。
肉は石より遥かに脆弱だから。
図書館は不死身でなければならないのだ
だから僕の肉そのものを図書館とするわけにはいかない
強固な媒体を以ち外部に再構築されなきゃいけない。
その後何層か経てやっと理解可能な高水準言語に還元されるように
私の書架自体も精神処理機構の極めて抽象的な表記であり
そのまま複製したとてそれを広く共有することは不可能である
「キレイダナ」の8ビットの背理にある、莫大な景色と感慨。
私と世界の間にも中間言語と高水準言語を設けなければならない。
則ち表現手段と作品である。私と世界を係累するもの。
「これは美しい」「これは幸せだ」を誰かとそのまま共有出来たら
どれだけ幸福なことだろう。
しかし私達は他者以前に汎ゆる外界とさえ直接的な接続は果たせない。
目鼻口手脚性器その他諸々がエンコードした信号に過ぎず
雪の日の書斎で暖を取りながら、窓から遠景を物憂げに見やる
_その一夜が則ち私達の畢生である。
そのことが悲しくて切なくてしょうがないから
僕は作品という船繋りを片手に嵐の海をもがくのだ。