『卍』谷崎潤一郎(1931) のエロゲ的考察 pt.1

『卍』谷崎潤一郎(1931) のエロゲ的考察 pt.1
文:フルヤアツシ

概要:※ネタバレ有
谷崎純一郎「卍」の考察
物語に仕組まれた再帰的構造について、またエロゲ的属性について
この回では主に前者を論じる。連載は3回程度を予測しているが未定

谷崎はエロゲだなっていつも思う。文学的奥行きを持った高度なエロゲ

彼の小説内部には背理に埋め込まれた予定調和の手法が凝らされている
但しそれは批判ではなく
むしろ非常に巧妙で高い構造性を持つから
そのギミック自体、ソリッドな機能美を讃えている部分がある

「卍」においてそれが何に当たるかといえば
結末の心中において、園子と光子に挟まれて孝太郎がいること
そして園子が「先生」に対する告白録という形をとっていることである
僕はにはこれが、欲望の追体験の為の高度な装置のようなものだと考える
逢瀬を重ねた後、湿った布団の中で何度もそれを回想するような自慰的な
ファンタジーへの融合の試みのように見えるのだ

物語終盤まで俯瞰視点で捉えられる光子と園子の女の園
そしてどう手を拱いても近づくことのできない園子の妻、孝太郎
ここまでは、禁足地であるが故聖域となりうる「禁断の恋」の典型であり
外敵による侵害で崩壊してしまうという構図もまた定石である

しかし物語終盤。その典型は極めて突飛に変形する
園子の夫、孝太郎が突拍子もなく光子と睦まじくなり
(しかも光子と園子の心中騒ぎのさなかに)
しまいには、彼が真ん中_両手に花の構図で心中に及ぶ
これは冷静に考えるとかなり突飛な展開であるし
それまでが正統派物語に準じていただけあって、ちょっと滑稽な感じすらする
そして「なぜこうなった」と考える時
僕はこの小説の根幹にある目的が
谷崎自体の『性的幻想の追体験』ということに他ならないのではないか?
と考える。

「禁色=聖域=不可触領域」に対し
それをいかんともし難い男たち
この時の孝太郎は読者の目線の化身である。
読者は繰り広げられる同性愛を俯瞰しつつ、そこに永遠に触れられないかのように思う
読者の世界には著者である谷崎も内包され
マゾヒスト的属性を持つ彼にとってはこれはこれで、独立した一つの快楽である
しかしその領域に、突如光子を関係を持つことで沈潜していく孝太郎は、
その時点で著者の化身に変形する。
いや、寧ろこれは憑依といってもいいかもしれない。
つまり彼は著者たる権限を以て越権行為を犯し孝太郎に憑依する
憑依された孝太郎はドラマツルギーを無視して光子と関係を持ってしまう
それまで禁欲的で常識に従順な「つまらない男」であった孝太郎が
いきなり妻が瀕死の折に目の前で愛欲に溺れるという理解しがたい行動も
これが作者による登場人物への『憑依』と考えると合点がいく
つまりこれは一種のメタフィクショナルを成している
そうしてこの物語を包摂する告白録の先である「先生」は、
園子の秘密の暴露という物語の献上を受けている。
「先生」が著者の生き写しであることは言うまでもない
これもまた上記とは別種のメタフィクショナルであり、
つまり自らの物語を自らの物語上の機能によって自らに献上するという
再帰的な『同一化』であると言える
つまりこの小説は「禁断の愛」という物語の核が
孝太郎を用いた『憑依』と先生を用いた物語への『同一化』という
2重のメタフィクショナルに挟まっている構造になっており
その2重のメタフィクショナルは上顎と下顎のように物語を咀嚼し
作者の性的反芻を手伝っていると考えられないだろうか?

反論はあろうが
こういう構造はエロゲによって没入する構造にかなり近い気がする。
プレイヤーは、俯瞰という「永遠にすりガラスの向こう」の世界を憧憬を以て見つめると同時に
選択肢等を駆使してその物語の中に没入しようという試みを同時に行っている。

そして結局はその物語内部への没入の試みは最終的に徒労に終わることを考えると
僕はこれよりもだいぶ後、老境に書かれた「瘋癲老人日記 」のことを思わずにはいられない。